2008年10月~2009年2月中旬
仙台に留学したのは、もう2008年10月のことです。
当時の私は、日本の大学院に進学するのではなく、そのまま日本で就職したいと考えていました。
そのため、留学生活が始まって間もない頃から、留学生向けの就職フェアに参加してみたり、夜な夜な日本の求人サイトを巡回したり、留学生向けの就職支援センターに登録したりしていました。
例えば、日経が運営する就職情報サイトにも登録し、さまざまな企業にプレエントリーをしていました。
別に、誰もが知っているような大企業でなくてもいい。給料だって、それほど高くなくてもいい。
人生の目標は、ごく普通に暮らすこと。
今日、一生懸命働いて、明日はアニソンライブに行って、思いっきりオタ芸を打つ。
そんなささやかな日常こそ、何よりも大切だったのです。
仙台に到着して生活が落ち着くと、私は誰にも知らせず、一人でひっそりと就職活動を続けていました。
履歴書の書き方や、面接でうまく受け答えする方法について書かれた本も借りてきて、読み込んでいました……。
2009年2月末~3月4日

そんな私の考えを、根本から揺るがす出来事が起こりました。
大学の「企業見学プログラム」です。
これは、翌年度に大学4年生へ進級する学部3年生を対象としたプログラムで、東京・神奈川、千葉、愛知(名古屋)の3つの地域に分かれて実施されました。
各地域の企業6社を訪問し、午前と午後にそれぞれ1社ずつ、2泊3日の日程で見学します。訪問先では、東北大学のOB・OGが迎えてくれました。
実際の会社生活についての生々しいアドバイスから、応募方法、面接のコツまで、さまざまなことを教えてもらえます。さらに、参加後に感想文(?)を提出すれば、単位まで取得できるという、なかなかありがたい授業でした。
応募者がかなり多かったため抽選になりましたが、運よく東京・神奈川コースに当選しました。
このプログラムのおかげで、2009年2月28日から3月5日まで、東京を訪れることになったのです。
企業見学の日程は、2009年3月2日(月)から4日(水)までの3日間でした。
その前の2月28日と3月1日には、東京・品川で「Key 10周年記念フェスタ」が開催されていました。
さらに、その直前の2月24日から27日までは、研究室で24時間フル稼働の燃焼研究を行っていました。
3日ほどほとんど徹夜を続け、凍てつく大地を歩いているのか、雲の上を歩いているのかも分からないほど疲れ果てながらも、研究は2月27日に無事終了しました。
そして翌朝、2月28日。
バスで東京へと駆けつけ、Key 10周年記念ライブに参加しました。
翌日の3月1日には、Key 10周年記念イベントを存分に楽しみました。
そして、その次の日から3日間にわたって、企業見学が始まりました。
興味深かったのは、各企業での説明が、勤務形態や生活のこと、面接に必要なスキルや具体的な方法、実際に経験した人の体験談にまで及んだことです。
さらには、年収についても、ある程度具体的な話が出てきました。
もしかすると、一般的な就職フェアなどは、情報の非対称性がすでに大きくなってしまった後に開かれるイベントなのではないか――。
そんなことさえ思いました。
企業の方々との懇談では、特に人事担当者や現場の実務者と、いろいろな話をしました。
なかでも、ある石油化学系企業では、韓国と日本の化学プラントの現状について、かなり長い時間話し込んだことを覚えています。
外国人を採用する際の面接方法や待遇についても、有益な情報を得ることができました。
最後は、たしかこんな趣旨の言葉で話を締めくくったと思います。
「韓国のプラントは規模が大きいので、いずれ日本との協力が必要になると考えています。その際には、両国の間に立って役割を果たせる外国人材が必要になるでしょう。ぜひ、将来でも構いませんので、応募していただければと思います」
そんな話をした記憶があります。
こうして外国人の採用や待遇に関する情報をいろいろと集めていくうちに、私はある重要な特徴に気づきました。
エンジニアとして働いている人のほとんどが修士卒で、学部卒の人がほとんどいなかったのです。
そして、3月4日に企業見学を終えて大学へ戻ったとき、その理由が分かることになります。
2009年3月4日~3月中旬
日本では4月に新学年が始まるため、3月になると学生の進学状況に関する資料が出てきます。
その報告を見て、私は少し驚きました。
「工学部の学部生の修士課程進学率が……8~9割?」
当時、私が通っていた韓国の大学では、大学院への進学率は2~3割程度にすぎませんでした。
ところが、東北大学ではその割合がまったく逆だったのです。
2009年度前期の実験科目を一緒に履修し、親しくなった学部生たちに聞いてみても、ほとんどの学生が大学院へ進学することを当然のように考えていました。
もちろん、すぐに就職するという学生が一人だけいたのも覚えています。
その学生は東京の金融業界に就職する予定でした。専攻とはあまり関係のない分野だったので、修士課程に進まないのも納得できる気がしました。
また、就職活動を始める時期にも、韓国と日本では大きな違いがありました。
韓国では、大学4年生になってから就職活動を始めるのが一般的です。
一方、日本では、卒業の1年半ほど前から就職活動に取りかかるのが一般的でした。そのため、卒業までまだ1年ある段階で、すでに内定をもらう学生もいたのです。
つまり、まさに3月のこの時期です。
研究室でも、修士課程の3学期目に入る直前の学生が2人ほど、「内定が決まった!」と話しているのを耳にしました。
企業見学を通じて、私は二つのことを思い知らされました。
一つは、エンジニアとして働くなら、修士号を取得していることがほぼ前提になっているということ。
もう一つは、人脈もないまま一人で進める就職活動には、明らかな限界があるということでした。
2009年3月最終週
ずっと追いかけてきた目標が、ある日突然、目の前から消えてしまう。
そんなことが起きると、人は文字どおり、ぽかんとしてしまうものです。
あのときの私は、まさにそんな状態でした。
日本で就職するという目標が、急に遠のいてしまったような気がしました。
――これから、どうすればいいんだろう。
そんなことを考えながら、ただ時間だけが過ぎていきました。
気づけば、3月も最終週。
研究室で黙々と企業案内の資料を読んでいると、博士課程の研究員さんが遊びに来てくれました。
この博士課程の方は、とても優しくて気配りのできる人でしたが、ときどき、こちらの胸に刺さるような率直なアドバイスをしてくれることがありました。
博士課程の研究員さん:「あさよう君が日本で何かをしたいと思っているなら、まずは先生に相談してみるといいよ。先生は大学に40年も勤めていらっしゃるから、いろいろなところに後輩や教え子がいるんだ。ほら、今回入社する学生だって、企業の人がここまで来て、研究室で一次面接を受けていったでしょう?
もちろん、就職サイトで情報を探すのもいいけれど、先生に相談すれば、もっと直接的で、いいアドバイスがもらえると思うよ。それに、大学院だって……」
私:「でも、大学院なら、先生はここに進学してほしいっておっしゃるんじゃないですか?」
博士課程の研究員さん:「もちろん、そう言うだろうね。私だって、あさよう君がうちの研究室に来てくれたら、本当にうれしいよ。でも、あさよう君が秋葉原に行きたいと言ったとしても、それを止めたり、邪魔したりすることはないと思うよ」
私:「そこで、なんで秋葉原が出てくるんですか!?!?(-_-;)」
博士課程の研究員さん:「とにかく、よく考えてみてね~^^」
そう言い残すと、笑いながら私の肩をポンポンと叩き、部屋を出ていきました。
……一度、よく考えてみる、か。
2009年3月28日~4月1日

気持ちが行き詰まったときには、声優さんのライブこそ最高の特効薬です。(?)
3月29日は、『らき☆すた』の日本武道館ライブでした。
加藤英美里さんや平野綾さんの明るい笑顔を見て、沈んでいた気持ちを吹き飛ばしました。
そして翌日、3月30日。訪問しました。
「願いが叶う場所」――そこは、お台場海浜公園。
日本留学を決意するきっかけとなった、神聖な場所です。
JR山手線の田町駅で降り、そこから「歩いて」レインボーブリッジを渡りました。
刃物のように冷たかった風は、いつの間にか春の気配をたっぷり含んだ、暖かい海風に変わっていました。
あちらこちらで桜が咲き始め、春の訪れを告げていました。

そして、お台場海浜公園の砂浜。
3年前の夏、私はこの場所で、日本留学への啓示を受けました。
今、こうして再びこの場所に立っていること自体が、奇跡なのだとよく分かっていました。
耳の中で響いていたのは、『Kanon』のエンディングテーマ「風の辿り着く場所」。
初めて経験した仙台の冬を乗り越えた私に、天から届けられた祝福のメッセージのように聞こえました。
そして、再び啓示がありました。
私は、2010年2月に、8学期で卒業することはできない。もう1学期、大学に通わなければならない。
2010年2月に卒業することは、就職活動を進めるうえで最初に満たさなければならない条件でした。
4月に入社する必要があるのに、2月に卒業できないということは、どういう意味なのか。
つまり、就職活動を断念しろ、ということでした。
それなら、これからどうすればいいのか。
答えは、すでに与えられていました。
これまでの人生で、何かあるたびに、偶然を装った奇跡のような形で私のもとに訪れた出来事。その一つひとつが、すでに答えを示していたのです。
謎が解け、散らばっていた証拠とヒントがつながり、たった一つの真実が浮かび上がりました。
東京の大学院へ進学せよ。
それが、導き出された答えでした。

東北大学に来て、はっきりと分かったことがあります。
それは、どうやら自分には研究室での生活が合っているらしい、ということでした。
朝は誰よりも早く研究室に出勤し、鍵を開けて中に入る。
静かな空間でお茶を一杯いれ、黙々と自分のプロジェクトを進める。
そうした時間そのものが、自分の性格に合っていました。
自分の乏しい専門知識を頼りに、あれこれ分析して結果を出す。
難しい計算や設計に頭を悩ませ、苦労しながら答えを探す。
そして、ときどき教授や研究員の方々とお茶を飲みながら、ブレインストーミングをする。
そうした時間が楽しかったのです。
だからこそ、1日10時間にも及ぶ研究室での生活を、苦にすることなく楽しめていたのでしょう。
研究室の皆さんも、私のことを本当にかわいがってくれました。
それでも、分かっていました。
仙台に残ったままでは、何をするにしても、物理的な限界があるだろうということを。
そして、心を決めた翌日、4月1日。
青春18きっぷを使って仙台へ戻った私は、将来について相談したいことがあるので面談の時間をいただけないか、という内容のメールを教授に送りました。
この文書は2010年後半期に大学院合格後に書いたのを翻訳しました。
